将来、映画なら映画の全情報を瞬く間に脳に送り込めるような技術が開発されたとしたしても、問題はまったく解決されないと思う。ヘルメットみたいなものをかぶってスイッチを押すと、たとえば、黒澤明の『生きる』が二秒くらいで脳に送り込まれるとしようや。どのシーンもどの台詞もどんな些細なディテールも、問われれば瞬時に引き出すことができる。どしゃぶりの中で若き菅井きん(なのにすでにおばさん役)が志村喬にうしろから傘をさしかけているシーンが、それをどこでどんなふうに観たのかさっぱりわからないのに、頭の中で鮮明な記憶として再生されてしまうのだ。でも、それではたして、『生きる』を観たと言えるのだろうか? おれはなんかちがうような気がする。
映画であれ音楽であれ小説であれなんであれ、おれはそれを鑑賞している“時間”ってのは、存外に大切なものなんじゃないかと思うのよな。人間の限られた寿命から、それらを鑑賞する時間を自主的に削り取って振り向けているわけだから、その時間というのは、単に情報を脳に送り込むという客観的な現象を超えた、主観的な“体験”なのである。
フィクションを愛する者は、なにも“情報”が欲しくて鑑賞しているわけじゃない。自分の命の一部を支払って、自分の境遇における制約を超えたなにかを“体験”するという対価を得ようとしているのだ。「そんなものを読んでいる(観ている、聴いている)ヒマがあったら、なにかもっと“役に立つ”ことをせんか」と、精神生活の貧しい人から言われたことがある人は少なくないだろうが、それは大きなお世話もいいところなんである。こっちは、命を削ってなんの役にも立たないことを体験することに、生きることの大きな価値を見出しているのだ。つまり、映画であれ音楽であれ小説であれなんであれ、それを鑑賞するには“時間”がかかるということこそが、そういったものを必要とする人々の生きざまをも規定していると思うのだよな。“時間”がかかるからこそ、そこには自分の人生を削り取るリスクがあり、だからこそそれを“体験”した時間は、自分が“生きた”時間として、単なる“情報”以上のものを鑑賞者に与えるのだ――と、おれは思う。ふつう、小説なんかは“時間藝術”とは呼ばないが、こう考えると、あらゆるものは、それを“体験”するのに時間が必要なのだから、みな時間藝術なのである。